「地震の時大丈夫だった?」

日付が変わり3月11日になった。そわそわして眠れないから、筆を取ってみる。

地震大変だったんじゃない?大丈夫だった?」

私の出身が仙台ということが分かると、この7年間何度も何度も聞かれたことの言葉。

歳を重ね、時間を経るごとに回答に悩むようになった。
今、重みを含んでいるこの言葉への回答を、時間も分量も気にせず、背伸びせず残しておきたい。

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「私は大丈夫だったよ。」


前日も大きな揺れがあったため、「またかよ」と思いながら机の下に潜ったが想像以上に揺れが大きくて、長くて、不安になった。

その日、揺れが起こっている間は、机の下でただひたすらいろんなイメージをした。ものすごく頭の回転が早かった。



当時幼稚園に通っていた弟はその日お母さんと駄菓子屋に行くと言っていたよな。
今頃帰り道にブロック塀に押しつぶされてはいないだろうか。


お父さんは仕事場で、棚に潰されてないだろうか。

外の建物は崩れてないだろうか。

阪神・淡路大震災の時みたいな家屋の倒壊が外では起こっているのか。

もし大切な誰かがなくなっていたらこれからどうするのか。










揺れが収まり、最低限の荷物を持って外に出ることになった。



外の風景はいつもとさほど変わらず、地面に少しヒビが入っていたり、スーパーの立体駐車場の橋が崩壊しているのが見えたくらいだった。



阪神・淡路大震災の時の倒壊の様子を想像していたから、「案外大丈夫そう」とほっとした。

校庭で親の迎えを待ち、しばらくして家族が小学校に揃い「とりあえず大丈夫だ」と安心した。















震災の直後、学校が休校になった。

することもなく本を読んでいたり、校庭で鬼ごっこやバスケをしていた。





電気はしばらく通らなかったから、ゲームは充電がなくなるまでしか出来なくてなんだかもったいなくてやらないでおいた。



近くの大きなスーパーでは、揺れた時にスプリンクラーが作動して、中に入れなくなった。
外に1時間くらい並んで、お菓子などの食べ物の入った詰め合わせを一人2つ買った。




携帯が使えないから、人づての情報を頼りに炊き出しや食べ物を手に入れる場所を探した。

マンションの住民同士で、手に入れたものを交換したり水を運ぶのを手伝いあったりした。



夜になると明かり一つで、電気のついてないこたつにみんなで入って小さなワンセグテレビか何かを見ていた。リスニング用のCDプレイヤーで音楽をかけたけど、なんだかカラ元気みたいな気がして消した。




それから1週間くらい本を読んだり、トランプをしたりしていた。たまに掃除をして、小学校に新聞を見に行った。









直後の一週間は何をしていたか覚えていないが、終わりのない春休みのような感じでぼーっとしていた気がする。

沿岸部の様子を見に行ったが、「テレビで見たのと同じだ」と思った。親戚も友達も津波の被害はなかった。

今まで通っていた道から、突然海が見えるようになって驚いた。

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こんな感じで、かなりぼーっとしていた。

一番ショックだったのは、祖父母の住む福島の原発が爆発した聞いて急いで帰ってきた時の母の雰囲気をみたとき。真っ青だった。

それから親友が引っ越してしまったこと。


中学は地元のメンバーが多く、内陸部で津波の被害がなかったからみんな私と同じような被災の状況だった。










だから、中学生になってから

「震災後みたいにずっと遊んでたい」

「また休校になんないかな」

なんて言葉も聞こえた。




不謹慎かもしれないけど、これが正直なところで少し大きい台風くらいに思ってたかもしれない。

だから、大丈夫だった。

私は震災の時、あんまり大変じゃなかったし大丈夫だったよ。

そう、なんの曇りもなく答えることができた。




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ではどうしてそう答えられなくなったんだろう。


被災で大切な人を亡くした人との出会いがあったから。

その人たちの津波で被災したときの話を聞いたからだった。

大変な人たちの体験が私の中に入ってきて、彼らのことを考えたら「大丈夫だった」とは言えなくなった。


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高校で出会った閖上の子は、流されていく同級生の手を掴めなかったというし、

三陸の親戚がまだ見つからない友達はとても悩んでいたし、

同じぐらいの歳の子が小さな揺れでもトラウマで泣いてしまうから、


私の知ってる震災と違うと思った。

彼らが「被災者」で私はそうでないんだと思った。





www.huffingtonpost.jp


この記事でいう中間被災者という言葉がとてもしっくりきた。被災者だけど、被災者とのギャップを感じる。

私も中間被災者だった。





宮城で生まれ育ち、3月11日もそこにいた私でも、被災という言葉に距離を感じてしまうのなら、あの日普段と変わらず生活していた人達にとっては「防災」も「被災」もさらに馴染みのない言葉なのだろうと思った。


だからこそ、私の今の立場で今出てくる気持ちで語りたい。

見て、聞いて、考えたことを私なりに伝えることが今のわたしにできること。

だから、「地震の時、大丈夫だったけどいろんなことがあったよ。」と答えて、気にかけてくれた人の「震災」や「被災」という言葉の周りに少し考える種をまければいいなと思っている。


そうして、被災者という集合の中で私としての立ち位置を見つけて少しもやもやが晴れた。




得たものや学びと言ってはなんだか薄っぺらくなるが、震災がもたらした影響は様々ある。

大切な人に会えなくなった悲しみを知る人からは、「今いることへの喜び」を教えてもらった。

色々な不安が一気によぎり頭がフル回転するあの嫌な感じはもう体感したくないから、そのための備えを最悪のケースを考えるようになった。

好きな人に好きって言う勇気をもらったこともある。


そんな話を今日はしたい。重くてもいいし、壮絶でなくてもいい。「あの日あなたは何をしてた?」





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地震大丈夫だった?」と聞かれると答えにくいから、少し怖かったけれど

今は前より自信をもって話してみようと思えるようになった。


それぞれに被災があるし、それぞれの思いがある。今日は経験や思いを共有しやすい節目の日だから、誰かと話せたらいいな。








20110310.nezihiko.com


最後に少しドキドキするこのサイトをぜひのぞいて見てください。