困ってるよね?ほしいよね?問題

最近よく私の周りの人が、SNSにこんな記事をシェアしている。

 

 

こんなのも

 

 

 

 

ほおなるほど。応援や支援するひととされる人のコミュニケーションはとれているのかなあ。

 

あー、この吉野川なんて行ってみたくなっちゃいました。

来年見れないなんて言われたら余計に。

それを売りに人を集めたら!なんて考えた。

 

 

これはうまくコミュニケーション取れないのかな、なぜかな。考えているうちに、こんなことを思い出した。

 

 

ある団体の復興シンポジウムで話し合った議題「支援」についてのことだ。

 

その場に集まった中高生で当時あった支援をたくさん書き出して、分野や時系列を整理した表を作った。

 

「どんな支援は、ありがたかったか」「印象に残った支援は?」

「もらって困ったものはあったか」

 

中高生目線のぶっちゃけトークがさく裂して、なかなかおもしろいなと思った。

 

いらない支援ももちろんあった。外国の全然泡立たない石鹸とか書きにくいペンとか、

生活的にもうお店で買えるのに届くときもあった。

どうしてそんなことが起こるのだろう。

そして、私たちが必要ないと思ったものでも、貧困と呼ばれる地域では必要なのでは?となんとなく思ってしまう。

 

まず、こういうことが起こる理由として私が考えたのは、「ほしい」人の気持ちを汲み取るための時間を割かなかった、または割けなかった。さらに言えば、そういうコミュニケーションの流れとかシステムがなかった。

災害時ともなれば、今コミュニケーションの主となっているSNSは使えないところもある。

SNSがつかえるところでは、ほしいモノと支援できるもののマッチングができるシステムがもっと普及したら、解決できるかもしれない。では、使えないところではどうしよう。使えない地域ではどうしたらいいだろう。

どんな災害をどんな地域が襲ったか、どんな想定をするかによってパターンは変わってくるが、私が考えるキーとなるものは隣町とのつながりと防災だと思う。

 

物理的距離はやっぱり無視できない。急いで向かっても、遠かったら時間は確実にかかる。すごく当たり前のことを堂々と言っているけど、この隣町というのは、隣の家の人ともいえる。近所のコミュニケーションが失われていることが問題視されている現在、隣の人がどんな住まい方、ライフスタイルを送っているか知っている人は確実に少ない。災害時、そういうコミュニケーションがベースとしてなければ、助け合える可能性があったものを最大限に出せないと考える。

 

そして、これもまたあたりまえだが、自分なりに最悪のケースを想定して、食べ物や水をストックするのは大事だ。自治体もそうだ。

 

それらは独立して、それぞれ存在しているのではなく、掛け合わされることによって、「ほしい」と「支援」のコミュニケーションをより円滑にする。互いに何を持っていて、どんな暮らしをもっているかわかれば、あの人がこれを持ってる、と頼れるし、あそこにはいつもあれがない、と気づける。

 

と思うのだ。

 

 

最初に紹介した2つのツイートに関しても同じだ。

機関がいくらくらい持っていて、とか、どういうことを効果として得たいとか、そういうのを市民が知っていれば、具体的にこうしたいというものを発信してうまくマッチしたらいいなとおもう。

 

 

 

なんか、うまく論理的には書けてないけど、伝わるかな。

 

とりあえず吐き出しておく。

 

こうなったらいいな構想。